小西写真専門学校、東京写真専門学校、
東京写真工業専門学校、東京写真短期大学
東京写真大学、東京工芸大学

 東京工芸大学の源流は1923年創立の小西写真専門学校である。小西写真専門学校は小西本店店主であった六代・杉浦六右衞門の遺言を受けて写真技術と芸術の人材育成のために東京府豊多摩郡代々幡町幡ヶ谷325番地(現在の東京都渋谷区幡ヶ谷)に設立された。杉浦六右衞門翁は日本における写真工業の先駆者、いや世界でみてもコダックのジョージ・イーストマンと並び賞されている。1902年に写真材料、光学機器の開発、製造を行うために六櫻社を設立、研究所と工場は淀橋の十二社(じゅうにそう)に置き、カメラ、乾板、印画紙の研究開発、国産化を開始した。この地は現在の新宿中央公園北側の熊野神社を取り囲むような敷地であり、1963年まで小西六写真工業(現コニカミノルタ)淀橋工場であった。現在、公園内には「写真工業発祥の地」の記念碑が建てられている。杉浦六右衞門翁の業績や小西六写真工業(現在はミノルタと合併してコニカミノルタ)の沿革については以下のホームページにも書かれている。
    コニカミノルタホームページ
    MYCOMジャーナル
    ネットアイアール
 小西写真専門学校はその後東京写真専門学校と名称を変更して発展したが、1945年5月の空襲で幡ヶ谷校舎は全焼してすべてを失ってしまった。終戦後、現在の新宿中央公園の場所に位置した小西六写真工業淀橋工場内の青年学校の施設を借用して授業を再開、1950年の新制移行時に東京写真短期大学として再出発した。その際に小西六写真工業より中野区東郷町にあった研究所跡地を譲り受けた。これが現在の東京工芸大学中野キャンパスである。新制移行時には小西六写真工業のほか、日本光学工業(現ニコン)、富士写真フイルム(現富士フイルム)、オリエンタル写真工業(現サイバーグラフィックス)、大日本印刷など、多くの写真や印刷の関連企業からからも援助を受けたそうである。1961年に東京写真大学となり神奈川県厚木市に工学部を開設、1977年に大学名を東京工芸大学へ変更して現在に至っている。東京工芸大学の中野キャンパスでは玄関ロビーに、厚木キャンパスでは図書館のロビーに杉浦六右衞門翁の胸像が置かれいる。
新宿中央公園内の写真工業発祥の地 記念碑

この地は、明治35年5月、小西本店(現・コニカミノルタ)が、写真感光材料の国産化を図り、研究所と工場(六桜社)を建設し、製造を始めたところである。同社は、さらにカメラ製造も始め、写真フィルムの国産化にも成功した。その後、昭和38年、新宿副都心建設事業により、八王子・日野へ移転した。今日わが国は、世界の写真王国となっているが、その礎は、この地で築かれたものである。
  昭和58年5月1日   新宿区設置
東京工芸大学(旧東京写真大学)中野キャンパス旧正門脇にあった杉浦六右衞門翁の胸像. 現在は建屋改築に伴って新1号館のロビーへ移設されている。

 小西写真専門学校から東京写真大学への発展については小西六写真工業株式会社が昭和48年3月に発行した
      創業百年史『写真とともに百年』
にも記載されている。この社史は正本と普及版が刊行された。以下に普及版108-113頁の小西写真専門学校について述べている 部分を示す。


 小西写真専門学校の開設 教育映画に関連して、小西六本店が写真教育界に樹立した金字塔についてのべよう。
 それは、さきに六代六右衞門の逝去のところでふれた写真学校の開設である。
 写真関係の教育機関として記録に残るもっとも古いものは、明治二十七年十一月、石井八万次郎が設立した写真講習所である。その後、河村勇次という人が帝国写真学校というのを設立したが、いずれも長くは続かなかったようである。ついで、同四十年、東京帝国大学工学部応用化学科光化学講座、同四十三年、京都帝国大学工学部工業化学科写真化学議座が設立され、大正四年には、写真界がこぞって援助した東京美術学校写真科が期待のうちに関かれたが、上記二大学のものは学者の養成機関とみられていたので、東京美術学校のものだけでは写真界の希望を満たすには遠かった。
 六代六右衞門は、写真界を発展させるための学校設立を深く考えていた。そして自店の力だけで建てようと決意していたが、それを果たす前に病に倒れたのであった。
 父の遺志を受けた七代六右衞門は、写真界をはじめ、各方面の有識者から意見を聞き、小西写真専門学校の設立を決意した。
 小西六本店の申請は、大正十二年三月七日付の文部省告示第一三五号で認可され、財団法人小西写真専門学校が設立された。建物はその前年から、東京府下代々幡町幡ケ谷の校地に建設されつつあったのである。初代理事長加藤精一、初代校長結城林蔵、創立当時の規模は校地八五〇坪(二、八一〇平方メートル)、二階建木造校舎四二〇坪(一、三八八平方メートル)、建設費七万円という。設立披露は同年二月十二日。この席上、結城校長は知育のみでなく、徳育を重視し、学理と技術に通じた士君子、ゼントルマンを養成するところとしたいといっている。ついで生徒の募集を行ない、本科二五名、選科・別科各若干名が入学を許可され、四月二十日、入学式を行なった。小西写真専門学校は、当時唯一の単科の写真専門学校だったので、略称の「写専」で通るようになった。
 写専開校の年、小西六本店は関東大震災によって大損害を受けた。したがって写専の経営も楽ではなかったが、結城校長、教授小野隆太郎、創立者の七代六右衞門、杉浦仙之助などの努力でどうにかこの難局を切抜けたのであった。

 大正十五年二月、小西写英専門学校は東京写真専門学校と改称した。これまでの校名では、私企業に隷属しているような印象を与える恐れがあったからである。同年三月、第一回卒業式があり、本科一四名、専科一名、別科二名の卒業生を写真界に送った。本料の卒業生には「写真学士」という称号が与えられた。学士はいうまでもなく大学卒業者に限るわけであるが、写専の設備が完備しているのを知った文部省は、専門学校であるにもかかわらず、とくにこの称号を与えてもよいと通知してきたのであるという。
 その後、写専は毎年優秀な人材を送り出してわが国写真界の発展に貢献したが、昭和十八年三月、東京写真工業専門学校と改称し、決戦に役だつ写真技術者養成のため、写真光学機械科、写真化学工業科の二科のみとした。時局が従来の営業写真家を養成するような教育を許さなくなったからである。
 それからまもなく、二十年五月二十五日、米軍機の東京西部大空襲によって、写専はいっさいを失った。小西六は途方にくれる写専当局を激励するとともに、淀橋工場の一隅に写専復興事務所を置いて、その再建に積極的な援助を与え、あるいは淀橋工場内の青年学校施設を提供するなどして、十月十五日から、授業を再開させたのである。
 さらに二十二年、小西六は、総合研究所第一部の跡地を写専に無償で提供して新しい校地としたが、この年四月、教育基本法および学校教育法が施行され、写専は新学制による新制大学となるか、新制工業高等学校となって格下げして存置されるか、あるいは廃校という三者択一の重大な岐路に立たされることになった。工業高校では立校の精神にもとるし、まして廃校などは六代六右衞門の遺志を踏みにじるに等しい。当時、第四代校長であった東久世通忠(小西六取締役・淀橋工場長)は、小西六の援助を請い、広く写真関係、ことに写専卒業生に呼びかけて、新制大学の昇格運動を活発に展開した。その結果、二十五年三月、東京写真短期大学(略称写大)が設立された。初代学長は元東京高等工芸学校教授鎌田弥寿治である。同時に、財団法人東京写真専門学校は財団法人東京写真短期大学(理事長八代杉浦六右衞門〉となったが、翌二十六年、これを学校法人とした。そして、小西六をはじめオリエンタル写真工業(株)、富士写真フィルム(株)、大日本印刷(株)などの写真界、印刷界の大手会社が理事に就任し、初代理事長にはオリエンタル写真工業(株)の社長菊地久吉が選任された。
 こうして、小西六が創業者の遺志によって創設し、営々として育成してきた写専は新制短期大学となったばかりでなく、写真界、印刷界の後援も受けることになり、ますます将米の発展を約束されることになった。
 その後、写大は順調に発展し、四十一年には待望の四年制大学への昇格が実現し、工学部(四年制・神奈川県厚木市)、短期大学部(二年制・東京都中野区)の両学部を備えるに至ったのである。
 日本の写真王といわれた人とはいえ、一商店主にすぎない六代杉浦六布衞門が写真学校創設を思いたって、その子、七代六右衞門にその遺志を実現させ、写真関係の専門学校を開設したことは、おそらく他の業界でも、また外国でもあまり例がないであろう。これをみても、創業者をはじめ、小西六の幹部が写真界の向上発展にいかに熱意をもっていたかがわかるのである。


[戻る]